光蓮寺 ビハーラハウスについて

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今を生きる私たちのお寺を目指して

宗教感の希薄化、檀家離れ、核家族化による承継制度の限界、など従来の形式だけでは解決できない問題が多く存在しています。
これまでの葬儀は親戚や近隣住民を呼び盛大で華美に行われてきました。
しかし、少子高齢化が進み、経済状況が悪化する中で、誰かの葬儀が人生の大きな不安や負担になってしまっています。

現代に即した「今を生きる」みんなのお寺をみなさまとご一緒に目指してまいります。

238 

            真実一如

 強者適応のゴールデンルールは強者側と思っている人間が考えた自然の原則かもしれないが、仏のゴールデンルールは、強者は多くの弱者の許しに支えられて初めて成り立つゴールデンルールなのだ。多いとか少ないとか、小さいとか大きいとかの比較は心が勝手に妄想しているだけだと思うのだ。

 

だから、この持ちつ持たれつの関係には強者も弱者もないのだ。弱者がいると考えている強者には適用されるルールかもしれないが、共に平等に今ここにある仏からもらった自然の命の輝きは等しいのだ。

例えば、太陽と蛍のように、それぞれが、その時、その場所で、そのままの輝きで充分よくて、それだけで、どちらも人間として勝者になっているのだ。

ここには、それぞれの輝きの比較は成立しない世界だ。だから、ここは勝者も弱者もいない世界が成立しているのだ。

 

239  いまさらながら、南無阿弥陀仏とは不思議な言葉だ。阿弥陀が凡夫を救うという願いが名号の言葉の行為によって、アミダの願いと凡夫の幸せという救済が一つの言葉に実現して一人の人間を救う縁として聞名されることによって完全に実現しているのだ。

    アーメンもアッラーもそうかもしれないが、これほど完全無欠な真理の実現の自然な道理は人間にとって、ほかにはあるまいと思う。

 

240  法蔵菩薩の第20の本願「果遂の誓い」自力意識を離れられない私をいつまでも真実の念仏世界に帰らせる力に任せよということだが。これは、阿弥陀様の私に対する強烈で美しくもある純粋執着である。無我の世界に帰るしかない私を、自我意識にとどまろうとする私を切り離し、真実の自由な世界に帰らせようとする吸引力の表現である。

 

241  仏の計らいによって

    己(おのれ)から

    自らに

    ここに在ることを

    真実のアミダ仏の自由意思によるものを

本当の自己という

 

242  身も心もサイフも軽く

    それができない私

 

243  これだけ愚痴を言い、

    人を批判し続ける私を

    いつまでもあきらめない  

    阿弥陀様は可哀そう

 

244  世の中に踊らされて70年

    この先も同じことだと知らされた

    そんな踊らす世の中から

    踊らされない世界を見つけることができるのだから

    踊らす世界と私のウソッパチもまんざらじゃない

    ナンマンダブツナンマンダ

    

245  希望を打ち砕く最善の方法は

小さな希望を抱かせることだ

 

246  便利だと高くつく

    不便だと安い

    ホント?

 

247  阿弥陀様は行動する仏教のはしりだ。

 

248  人生は遠足だ。罪業のリュックを背負って、魂の故郷へ帰る一里塚だ

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